PURE ANGEL[第2章]最終話
最終話
パリに旅立つ当日なって進から頼まれていた品物を揃えていなことを思い出したつくしは、空港に向かう途中で買い物をすることにした。
進から商品名などを詳しく書き込まれたメモを手にして僅かな時間で買い揃えたつくしは、ほっとした表情で待機している車に向かって歩いた。
「つくし?」
その様子は偶然にも道の反対側にいた類の目に留まった。
類はつくしを見失わないように目で追いながら慌てて横断する。
つくしは待機していた車の運転手に荷物を預けて車に乗り込む寸前、誰かに右腕を掴まれた。つくしは驚いて小さな悲鳴を上げて振り返ると、そこには息を切らした類の姿があった。
まさかの出来事にSPは次の瞬間には類の腕を捻り上げつくしを類の手から解放し、もう1人のSPがつくしを守るように立ちはだかる。
つくしはSPと共に行動をしたり、少し離れた所から見守られる、といったことにはだいぶ慣れてきていたものの、緊迫した状況に置かれたのは初めてだったのと、類がこの場にいたこととの二重の驚きに恐怖さえ感じていた。
「つくし」
類の声でつくしは我に返った。
「るっ…類…。……内田、放しなさい」
2人のSPはつくしの背後に身を引いた。
SPならば元婚約者である類の顔を知らないはずがない。例え新人のSPであっても情報や教育は受けている。それなのに自分を不審者扱いするこの状況を、類は悲しく思った。
「つくし痩せたね、…体の方は大丈夫なの?」
「うん、心配しないで、大丈夫だから」
「つくし、ちゃんと顔を見せて」
つくしはまともに類の顔を見ることができなかった。
ビー玉のような澄んだ瞳を見てしまうと、辛い思いを封じ込めて決心したことが揺らぎそうになるからだ。また、類に一言の相談もなく自分の事情で勝手に婚約を解消することを本人に直接会って話すべきだったのに、手紙という手段を取ったことにも負い目を感じていた。そして何よりも類を傷つけてしまったからだ。
「つくしと話がしたい」
つくしは俯き返事に困っていると、内田が割って入った。
「お嬢様、お時間がありませんが」
類は内田を一瞥して直ぐにつくしに視線を戻す。
「これから何処かに行くの?」
類は嫌な胸騒ぎを覚える。
たくさんの人が類とつくしの脇を通り過ぎて行く都会の喧噪の中、2人の間だけは静寂が漂う。
「類、あたしね…」
つくしが言い掛けた時また内田が口を挟む。
「お嬢様、奥様が空港にお着きになられました」
内田はドアを開けて車に乗るよう促す。
「あたしパリに行くの。…類、ごめんなさい」
ドアは静かに閉じられ、車は動き出す。
「パリに…」
類はつくしを乗せた車を呆然と見送った。
あまりにあっけないつくしとの再会だった。
非常階段で会っていた頃より、道行く人よりずっと遠い存在になってしまったことに、類は言い知れぬ虚脱感と寂しさに包まれた。
つくしは黒崎の人間で、自分はもはやただの知人になってしまったのかという思いがよぎる。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのに、何も聞けず何も言えぬまま、天使は手の届かない場所に飛びたとうとしている。
――数日は良かった
進の友達や学校の話や出来事を聞いてふざけあって
いろんな所を見て、美味しいものもたくさん満喫して
でもなんか違う…、何かが違う
そう思い始めたのは1週間が過ぎた頃だ、…無理してるって
あたしの中から類を追い出そう、追い払おうとしても
あたしに微笑みかける類の顔が浮かんで離れない
切り離すことの出来ない存在
何処に逃げてもこの記憶は消せないことを
知らないふりして、でも本当は最初から知ってたんだよね
「姉ちゃん、日本に帰ったら」
パリの黒崎の屋敷の一室でボーッとしているつくしに進が声を掛けた。
「今の姉ちゃん見てたら誰だって帰れって言うよ
〝心ここにあらず〟って感じで・・・
逃げたってなんの解決にもなんないんだよ
自分が一番分かってるんでしょ?……今、何をすべきか」
「進!何よその言い方!まるであたしがいると邪魔みたいじゃないの」
――ホント人のことよく見てるね
……あたしがすべきことは、分かってる
自分と…、類と…、向き合うことだ
「つくしさん、わたくしも進くんの言う通りだと思うわよ
2人でじっくり話し合いなさい。どんな結果を出したとしても
それは2人が決めたこと、自分達の将来のことですもの誰も文句
は言わないわよ。前にも進めない、後にも戻れないじゃつらいで
しょ?……わたくし達はどんなことがあっても、つくしさんの味
方だということを忘れないでね」
そう言って茜は微笑み、つくしの手に航空券を握らせた。
茜と進の温かさに胸が熱くなり、張り詰めていた思いが一気に溢れ出す。
――ありがとう
あたしは独りじゃない、見守ってくれる家族がいる
つくしがよく中庭に出て散策していたように、類も中庭に出てみた。つくしが散歩コースにしていた道を辿るようにゆっくりと足を進めると、パリに発つ前日に持ってきた子宝草に目が留まる。
――こんなに大きくなったんだぁ
類は子宝草の前にしゃがみ込み、当時のことを振り返る。
――枯らさないようにって気にして、…枯らしてしまったら
つくしが俺の元に帰って来ないような気がして…
あの頃は必死だった
皮肉だな、……お前はいっぱい子の葉を増やしていくのに
つくしは…
「類さま、……類さま」
類は角田の声で現実に戻される。
「類さま、旦那様と奥様がお戻りになられました」
類は立ち上がると大きく深呼吸をして空を見上げた後、両親がいる部屋に向かった。
「つくしに会う前に、お父さんとお母さんには僕の意思を知って
おいてもらいたくて伺いました」
硬い表情をする両親を類は見据える。
「お前の意思?」
「僕にとって何が一番大切なのか、失ってより一層確信しました
僕にとって牧野つくしはすべてで、生きる糧です
彼女が傍にいてこそ僕の人生が、未来があるのです」
「それは、つくしさんを選ぶということかね?」
「はい。このままつくしを失ってしまったら、僕は生きていく意味
がありませんから」
なんの迷いもない強い眼差しと力強い言葉に、薫と葵は並々ならぬ決意を感じ取っていた。
「お前の人生の中には花沢もあるんだぞ
お前がつくしさんを選ぶということは、花沢の跡取りが途絶える
ことになるんだぞ、それを認識しての事なのか?私達は孫の顔を
見ることはできないんだな?」
「僕はつくし以外の人と結婚なんて考えていません
もしつくしと結婚することができないのであれば、僕は一生独身で
通すつもりですから、どちらにして孫は期待できないと思います」
「なっ!私を脅すつもりかね?」
「脅す?くくくっ…、とんでもない
僕は自分の手で自分の子供を殺したんですから、自業自得ですよ
……つくしには申し訳ないと思っていますが…」
血迷ったように笑う息子を見て薫と葵に戦慄が走る。そしてつくしから事情を聞いていた内容との食い違いに焦る。
「類ッ!こ、殺したとはどいうことだ?」
「僕がつくしの腕を振り払ったせいで階段から落ちた、そのせいで
つくしは流産した。……僕は一番大切な人を傷つけてしまった
…そして子供までも……殺した」
薫は目を伏せ、葵は類の傍に寄りそっと肩を抱く。
「類くんのせいじゃないわ、事故だったのよ。そんなに自分を追い詰
めないで。そんな類くんの姿を見たらつくしさんだって悲しむわよ」
薫は沈痛な思いで息子を見つめる。
――お前の気持ちは十分に分かっている
「このままでは道義的に筋が通らない。つくしさんとじっくり話し
合ってきなさい。この話はその後に聞こう」
薫は硬い表情で心とは裏腹な態度で部屋を出て行った。
「茜さんから連絡があって、つくしさんね一昨日パリから戻られた
そうよ。つくしさん、類くんのことばかり考えていたって茜さん
が笑って話していたわ」
「つくし、帰って来たの?」
「ええ、そうよ。あの大きなお屋敷につくしさん独りでいるんです
って。使用人はいても話し相手がいないのは寂しいものよ
類くんなら分かるでしょ」
「つくしの部屋で偶然母子手帳を見つけた時、俺すごく嬉しくて…
暫く眺めていた。……これから成長記録が記入されていくはずだ
ったのに。……つくしが苦しんでいる時に俺は何も知らずに喜ん
でいたんだ」
――俺を受け入れてくれるだろうか?
黒崎邸を訪れた類は客間に通され、不安な気持ちを抱えてつくしの入室を待っていた。高鳴る鼓動を静めようとソファには座らず、窓際で外の景色を眺める。
綺麗にカットされた芝生、幾つもの薔薇のアーチに陽光が照りつけ、自然が織り成す風情は誰もが心を和ませものだが、極度に張り詰めた今の類にはただの切り取られた景色が並んで見えているだけだった。
暫くするとカチャッと音がして、類は扉の方に振り向き視線を集中させた。ゆっくりと扉が開くとそこには愛してやまないつくしの姿があり、堪えていた想いが一気に溢れた出た類はつくしの元に歩み寄ると抱きしめる。
この瞬間をどれだけ待ち望んでいたことか。
――つくしが俺の腕の中にいる、これは夢の中じゃない
悪夢の中に何度も登場しては虚しく消えていった
あのつくしじゃあないんだ
少しして類の胸から離れてテラスの方へ歩き出したつくしを、類は目で追った。
「つくし、今日会いに来たのは、これからのことをはっきりさせた
くて来た。前なら何の意味もない人生でもそれが俺の進む道だと
諦めていたけど、今は違う。つくしに出会ってしまったから…
俺の人生からつくしをとったら何も残らない、だから牧野つくし
をお嫁さんにする。嬉しい事や悲しい事をふたりで分かち合って
生きていく、そう決めた」
――類…、どうしてあなたはそうなの
類の話に憮然とするつくしは目を伏せため息をつく。
少ししてつくしは硬い表情で類に向き直った。
「なに言ってんの、なに言ってんのよッ!
あたしを選んだら類はどうなるの!?…花沢はどうなるのよ!?
ホント自分勝手なんだから、そう簡単なことじゃないんだよ」
声を荒げるつくしの鋭い瞳と類の澄んだ瞳が絡み合う。
「俺は、今まで同様にこれからもずっとつくしと一緒にいたい
そう思ってるんだから簡単なことでしょ。子供が全てじゃないよ」
――どんな状況になっても変わらず愛してくれる
類の気持ちが嬉しい、とても嬉しい、…けど…
「一時の感情で決めないで!人生は長いんだよ
きっと、…後悔する時がくる」
類はクスッと笑い背けたつくしの顔を覗き込む。
「俺の精子に問題があって〝子供をつくることができない〟
って言われたら、つくしはどうする?」
「……えっ?る、類が…」
目を丸くして驚くつくしに類は頷く。
――そんな事あるわけないでしょ
身に覚えがあるハズなのにそんなに驚いて
「俺と別れる?」
つくしは頭を横に振って否定した。
「どうして?」
「…だって…類は類だもん、そんことで別れたりしないよ」
「つくしに捨てられたらどうしようかと思ったけど、それ聞いて
安心した」
「なっ、あたしが類を捨てる?なんであたしが?」
「くくくっ…。これでも俺は一度アンタに捨てられたけど
深い深い谷底にね」
類が言っている意味がいまいち理解できないつくしは眉間にしわを寄せて首を傾げる。
「子供をつくることができなくても別れないって言ったつくしと同じ
ように、俺もそうだよ。だからつくしをお嫁さんにするって言った
俺の気持ち、つくしにだって分かるよね?」
類のペースにまんまとハメられたようだ。
「でも…、類とあたしじゃ話は別だよ」
ここまできてもまだ強情を張るつくしに類は軽く溜息をつくと、真顔になる。
「牧野つくしは花沢類のことを愛していますか?」
「なっ、何いきなり」
「いいから答えて」
類はつくしのどんな表情も逃すまいと凝視する。
つくしは類の真剣な眼差しに怯みそうになりながらも真っ直ぐ見つめ、その瞳に問いかける。
――今でも愛してるよ、そう言ってもいいの?
一度口にしたら抑えていた想いが溢れちゃうよ
類、それでもいいの?
「つくし?正直に生きるって言ったよね?」
「あたしは…、あたしは類を…」
〝愛してる〟そう言えたらどんなに楽か、でもその一言を口にする勇気がない。つくしは類からさり気なく視線を外し、俯く。
「つくし、自分を偽って生きる方が後悔するんじゃないの?
臆病者として生きる人生に価値なんてないんだ
俺はこの人生を受け入れるって決めた、つくしと共に歩む人生を」
類の固い意志が伝わり、つくしの目には溢れんばかりの涙が今にも零れそうになる。
「…るぃ」
類はつくしの手を取り意地悪そうな瞳を向ける。
「〝あなただけが救いなの〟〝あたしの気持ち覚悟してね〟
そう言ったよね?あれはウソだったの?」
つくしは俯いたまま無言で頭を左右に振った。
「正直に生きたら、類や類の両親を苦しめることになる、それでも
いいの?自分の子供を見ることも見せることもできないんだよ
それでもいいの?」
類はプッと噴き出すとつくしの涙を指で拭いながら優しい瞳を向ける。
「苦しむかどうかは本人が思うことで、つくしが思うことじゃない
でしょ。少なくとも俺や両親は思ってないよ」
類には後取りやら孫の顔がだのときつい事も言った薫も、本心は類とつくしには幸せになって欲しいと願っていたのだった。そして、会社の将来や花沢家の将来の事よりも息子の幸せを優先する事を選択したのだった。
「…えっ?」
目を丸くさせるつくしに類は柔らかく微笑み、そして頷いた。
「もう両親には言ってある、だから何も心配することはないだよ」
類はつくしの肩を掴むと真剣な眼差しを向ける。
「つくしの手紙、全て白紙にって書いたこと、白紙にしていいよね?」
つくしはコクンと頷く。
「つくし、俺と結婚してくれるよね?」
「はい!」
「つくし、ありがとう」
類はつくしを抱きしめ、つくしも素直に類を抱きしめ返す。
力強い返事に、類の心によどんでいた黒い霧は牧野つくしという風に流され青空の広がりをみせ、色褪せた未来に輝きを取り戻す。
類のかわらぬ想いに、つくしの心に孤独と負い目の暗い影は花沢類という風に流され、二度と戻らない所へと飛んで行った。
今の2人の心はなんの曇りもなく澄みきっている。
今あるのは溢れるほどの互いを想う気持ちだけ。そして、互いの温もりを感じる、これが現実であるということ。
人間はどんな艱難に遭おうとも、腹を決め前向きに生きていかなければ心身ともに健全な自分がない。ここに辿り着くまでには、山あり谷あり波乱に満ちた人生ならぬ、青春だったからこそ身をもって学んだことだ。
好いた同士は泣いても連れる
婚約パーティーから3ヶ月後
類とつくしは平成20年10月10日に挙式。
同日に入籍。
類の念願だった〝安心という保険〟が手に入った。
つくしにとっても辛く悲しい時期を乗り越えた分、有り余るくらいの愛を手に入れた。

